参院選を巡る違和感について

 ここ1週間くらいずっと参院選を巡る様々なものについて違和感を感じていたので、そのことを書きたい。タイトルを見てわかるとおり、先日読んだ先崎彰容さんの『違和感の正体』にかなり影響を受けている。

 書き出しは三宅洋平がいいだろう。
 東京選挙区から立候補している三宅洋平を巡って、彼のフェスを見て彼を支持する人達がいる一方、三宅洋平がホメオパシーなどのトンデモ科学や陰謀論などを主張することをあげて彼を非難している人達も多く見られる。三宅洋平を”あり”とする人と、”なし”とする人の間でネットが騒がしい。
 私は三宅洋平は”なし”だと思うが、彼を擁護する為に一言加えるなら、与党議員の中にもトンデモなことを支持している議員さんはいっぱいいる。もちろん、トンデモを主張しているというその一点でその候補を”なし”とするのもしないのもその人の自由だ。
 私が気になるのが、三宅洋平を”あり”とする人と”なし”とする人との対立である。特に気になるのが、三宅洋平を”あり”とする人達への”なし”を強く感じることだ。三宅洋平を支持するなんてありえない、そんな人達はおかしいという意思表明を多くの人がしているように思える。

 三宅洋平を自民党に置き換えると、今回の選挙全体の大きな構図になる。
 今回、自民党は憲法改正案を示し、非常に単純化していうと日本を明治の頃のような国家体制にしようとしている。だから多くのリベラルは決死で反対している。野党共闘もその為だ。憲法改正に必要な3分の2を取らせないよう必死だ。
 私は明治のような国には反対だ。しかし、結果と同じくらい気にかかることがある。仮に改憲勢力の3分の2を防いだとしても、私達の住む日本には、日本を明治のようにしたいという人が一定数いて、私達はその人達と一緒に生きていくのである。私はそのことの方が大きく気にかかる。 

 もう少し極端なことを言おう。
 会社や自治会のような多様な層の中にいると、意外と一定の割合でどこかの国に対して嫌悪感を持っていて、それを何かの時に口にする人がいる。私はそういったことに対しては”なし”だが、そういう人達を全て遠ざけて一市民として生きることはかなり難しい。
 リベラルが言う多様性とはそういうことだ。私が”なし”だと思ってることを”あり”だと思っている人達と一緒に暮らしていかなければならない。それが多様性だ。それは結構煩わしいものでもある。

 三宅洋平に話を戻す。
 実は三宅洋平は比例で17万票を獲得した3年前に比べ情勢はとても悪い。緑の党という政党を離れ、激戦の東京で出馬した彼が当選する可能性は限りなく低い。
 さらに、先の与党VS共闘野党の図式がある。三宅洋平はその図式に飲まれ、完全に話題性の蚊帳の外のはずだった。しかし、私のTwitterのTLでは三宅洋平の話題が結構多い。いや、正確に言うと三宅洋平の”あり”と”なし”の話題がとても多いのだ。
 与党に対する”あり”か”なし”という二項対立の大きな構図の中で、三宅洋平は埋没し、三宅洋平は”あり”か”なし”かという三宅洋平を巡る二項対立だけが埋没せず残っている。

 私が今回の参院選に感じている違和感はこれだ。
 極端な二項対立。自民党は絶対”なし”だし、自民党を”あり”とする人なんて”なし”だという強い拒絶。
 ネットは二項対立を煽る媒体だし、投票という行動は本質的に二項対立だ。しかし、だからといってこの空気はいいのだろうかと私は戸惑っている。
 確かに自民党の憲法改正案は大きな変化をもたらす強い案だ。世の中をある方向へ強く傾かせようとしている。
 自民党の憲法改正の中に非常事条項というものがある。非常事態だからと政権に強い力を与え、国を一つの方向へと動かしやすくしていくものだ。その危険性は分かるし、反発することを私も支持する。
 だが、非常事態条項ができてしまうかもしれない非常時だから何はともあれ反対に結集すべきだという声は、皮肉にも非常事態条項と同じレトリックを持っているのだ。

 私が前回の記事で『俺たちスーパー・ポリティシャン めざせ下院議員!』というしょうもないアメリカのコメディ映画を紹介した理由はここにある。と、昨日になって気づいた。

 この映画はアメリカの下院議員選挙を描いたものだが、アメリカの選挙の熾烈なネガティブ・キャンペーンはまさに双方への”なし”の応酬だ。
 この映画の主人公の一人である現職議員は、トラブルの中でカメラの前で子犬を殴り、赤ちゃんを殴り、さらに血迷って対立候補の妻を寝取ってその様子を選挙CMで流すことまでやってしまう。
 どれか一つをとっても現実の選挙なら完全アウトだ。しかし、彼は当選する。それだけではない。さらに、心を開いた対話によって、もう一人の主人公である対立候補と和解し、彼に議席を譲り、共に政治を影で操っていた資本家と戦っていく。
 もちろんストーリーの都合上、一つのスキャンダルで失脚してしまったら映画にならない。最後はハッピーエンドに落ち着かないといけないのもそういう都合の為のものだ。
 しかし、この映画の中には、意図してかどうかは別として、”あり”と”なし”の二項対立を乗り越えていく過程が描かれている。

 私がこの参院選で感じている違和感は”あり”と”なし”の強い二項対立だ。
 ある方向への単純で強い力への反対は、単純に逆方向に力を働かせるだけではない。立ち止まって複雑という煩わしさを受け止める方法だってあるはずだ。 
 私はこの違和感に対して、とりあえずそういう立場を取りたい。

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