総選挙で見えた! AKB48は埋没したプロレスだ

 今年のAKB48の総選挙は何とも変な感じだった。AKB48自体はそんなに盛り上がっていないような感じなのに、CDの売り上げや得票数は去年を大きく上回っているのだ。私個人としても今年の総選挙はなんか自然に面白く見れてしまった。
 これらはなぜだろうか?

 去年、私はAKB48というものは過剰なまでにドラマ性を盛り込んでいるという意味でプロレス的であると自分のブログで書いた。
プロレスはまさにショーだ。勝敗が決まってるという意味ではない。他のスポーツとは違い、過剰なまでのドラマ性と演出を楽しむことに主眼が置かれている。

「総選挙で見えた! AKB48は埋没したプロレスだ」

 そして、今年のAKB48を見て私が連想したのはアントニオ猪木全盛期の頃や今現在の新日本プロレスだった。
 プロレスは過剰なまでのドラマ性ゆえにある種の胡散臭さが伴ってしまう。それゆえの妖しさも魅力の一つになるのだが、どこかマイナー感も漂ってしまう。
 しかしである。今から30年前の猪木全盛期の新日本プロレスは完全にメジャーな存在だった。ゴールデンタイムで放送されて、みんながプロレスを見ていた。
 その時のプロレスはプロレス性が見えなくなっていたと思う。改めて考えてみればいかがわしさ全開だった。でもあの時はそのいかがわしさが埋没して見えなくなって普通のことになっていたのである。過剰なドラマ性があることを知りつつ、見てる人はそれがないかのように振舞っていた。
 これは今のオカダカズチカ体制の新日本にも通じるところがあると思う。
 
 AKB48は過剰なまでのドラマ性によって成り立っているものだ。だが、今のAKB48はそれが自然になってしまって胡散臭さの体感が薄れ、コンテンツの魅力だけが残っている。
 ここでいう胡散臭さとは別に総選挙が細工しているとかそういうことではない。アイドルとしてのぶりっ子的な笑顔や過剰な自分語りなどのことだ。
 要はメジャー化がある程度進んで定着し、その尖っている部分に慣れてしまったということだ。胡散臭さは消えてはいない。ただ見てる人の意識から薄れているだけなのだ。

 AKB48は30年前や今の新日本プロレスなのである。妖しさが世間に認められた時、それはただの魅力になる。
 AKB48はプロレス性が埋没したメジャーなプロレスなのである。

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