多様性は正しいかを考える

 今年ずっと気になってたのが、”多様性”というキーワードでした。多様性のある社会がいいんだ、多様性は正しいんだという言葉を見る度にずっとひっかかったものがありました。
 そこで今回はこの多様性は正しいのか?という問いをじっくり考えてみたいと思います。
 まずはこれは厳密には多様性とは違うのかもしれないですが、表現の自由に制限があるかという話から。

表現の多様性(表現の自由)から考える

 ここ数年、ろくでなし子問題というのがありました。ろくでなし子さんが自分の女性器を3Dプリンターでデータ化したことで逮捕されました。彼女の活動はアートで表現の自由だとリベラルから多くの支援者が出ました。
 そこまではまぁよかったのですが、彼女を支援した人達に困ったことが起きます。彼女は難民を揶揄した漫画を書いたはすみとしこさんも自分と同じく表現の自由ではないかと擁護したのです。一部の賛同者はろくでなし子さんから離れ、彼女はリベラルの人達が表現の自由というのは自分の都合のいいものだけではないかと批判しました。
 さて、この問題をどう考えるでしょうか。ヘイトスピーチは表現の自由なのか。多様性のある社会をと考える人は当然ヘイトスピーチは認めないでしょう。ヘイトはNGなはずです。
 ちなみに私は、ろくでなし子は嫌いだけど表現としてはOK、はすみとしこは嫌いでNGです。参考までにいうと『ムカデ人間2』は大好きだけどNG。
 

 ヘイトがダメなのはそれが対象の人間を深く傷つけるからです。その人達の人権を侵害しているからと言ってもいいでしょう。
 表現の自由は道徳的規範(基本的人権)の制限を受ける。こう私は考えます。
 ここで私が基本的人権をあえてカッコの中に入れたのには理由があります。それは次の次で。
 いや、多様性ってのは宗教や民族や性的指向とかもっとその人の深く根づいたもののことだと思う人も多いと思うので、それは次のテーマで扱います。

性的志向の多様性から考える

 少しずつですが世界中でも日本でも同性愛に対して寛容な社会になってきているのではないかと思います。
 ここで一つ問題提起があります。では、全ての性的志向が認められるべきなのでしょうか。
 例として小児性愛をあげます。小児性愛とは子どもを性的、恋愛対象とする人のことです。
 かつてデンマークには児童性愛愛好者協会という協会が合法的に存在し、小児性愛が社会に認められることを目標に会合を重ねていました。合法なので普通に市の文化センターなどの一室で会合を重ねていたのです。
 ドキュメンタリー番組の制作者がこの会合に潜入し、番組にしています。この番組は書籍化され、日本でも読むことができます。

 自分達が社会から虐げられていると嘆く小児性愛者達が(実写の)の児童ポルノや児童買春によって子どもを虐げている様を彼は目撃し、潜入先の小児性愛者達を警察に通報します。
 児童と性的関係を持つことが虐待と考えられている社会では(行為としての)小児性愛は子どもを傷つけてしまうことを避けられません。
 性的志向のようなものでもやはり道徳的規範の制限を受けるのではないかと私は思います。
 次はその道徳的規範の多様性についてです。
 
 

道徳的規範の多様性

 『クロッシング・ウォー 決断の瞬間 』というドイツ映画があります。アフガニスタンに駐留したドイツ軍部隊を描く映画なのですが、そこに興味深いシーンがあります。
 主人公の新任の隊長がアフガニスタンのある村にやってきます。村に入った直後に彼は村長らしい老人が子どもをボコボコに殴っているところに出くわします。彼は老人を止めようとしますが、逆に副隊長に止められてしまいます。

 実際のアフガニスタンの村がどうかは別として、世界には子どもの人権をあまり尊重しない地域が少なくありません。確かに私達はそれを野蛮に思うことでしょう。
 
 ここでもう一つ、逆の例をあげます。
 哲学者ピーター・シンガーなど、世の中には動物の権利の為に動物を食べない人達がいます。知能や感情を持った動物にも(人間と同等とまではいかなくても)権利があるという考えです。
 そんな彼らから見れば、動物の権利を認めず普通に食肉をしている私達は野蛮に見えることでしょう。

 基本的人権というと普遍的なものに思えるかもしれませんが、実際は恣意的で主観的な概念なのです。それぞれの社会にそれぞれの基本的な人権の範囲があるわけです。

 まとめ ではどうすればいいのか

 
 多様性と言いますが、実は私が思う多様性は私が思う道徳的規範の制限を受けています。人によって範囲の違いがありますが、どの人もその範囲でしか多様性を認めていません。
 そして、それは私は正しいと思っていますが、絶対的に正しいわけではなく、正しいと思わない人も当然いるわけです。
 多様性の範囲の広さは道徳的規範によって決まっているわけです。これを道徳的基盤の多さというキーワドで説明した本もあります。

 私達は多様性を考える時、実は道徳の多様性に向き合わなくてはいけなくなります。文化や人によって多様性の範囲は違うのです。 

 では、そんな世界でどうしたらいいのでしょうか。
 その答えは先程あげた『クロッシング・ウォー 決断の瞬間 』の中にあるように思えます。
 子どもを殴る村長を止めようとした時、軍人である隊長は当然銃を持っています。自分が正しいからと言って力でそれを押しつけるのは決していい結果を生みません。映画ではドイツ軍部隊は違う文化を持ったアフガニスタンの村民と交流を重ね、少しずつ距離を縮めていきます。子どもを殴ることは決して許せるものではないですが、それを力で押しつけることなく交流を重ねていくのです。
 様々な多様性の範囲を持った人々がいる世界で、自分の多様性を押しつけることは得策ではありません。どういう答えが出るかは別として、とりあえず交流と思索を続けるしかないのです。

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